![]() |
| 送信者 2011/07 |
ページビューの合計
2011年7月25日月曜日
本山慈恩寺本堂
![]() |
| 送信者 慈恩寺 |
国指定文化財等データベース
本山慈恩寺本堂
名称: 本山慈恩寺本堂
ふりがな: ほんざんじおんじほんどう
名称(棟):
名称(ふりがな):
番号: 0495
種別1: 近世以前/寺院
国宝重文区分: 重要文化財
指定年月日: 1908.04.23(明治41.04.23)
員数(数): 1
員数(単位): 棟
代表都道府県: 山形県
都道府県: 山形県寒河江市大字慈恩寺
所有者名: 本山慈恩寺
指定基準:
管理団体名:
管理団体住所:
管理団体指定年月日:
構造形式: 桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺
時代区分: 江戸前期
年代: 元和4(1618)
解説文:
2011年7月24日日曜日
2011年7月22日金曜日
2011年7月21日木曜日
2011年7月20日水曜日
山形県寒河江市慈恩寺三重塔
![]() |
| 送信者 慈恩寺 |
慈恩寺三重塔(県指定文化財、江戸時代 文政十三年 1830年、銅板葺、高さ 26.7m)
慈恩寺は天平18年(746)、聖武天皇の勅令でインド僧婆羅門僧正が開基したと伝えられる東北を代表する寺院
三重塔は慶長十三年(1608)山形城主最上義光が建立後、文政六年(1823)焼失。文政十三年(1830)再建。大工は布川文五郎
塔は高欄のない縁をめぐらし、縁の下は板張りになっている。中央間桟唐戸、脇間板張り、中備えは蟇股
相輪(塔の上の金物)は擦が上端まで太く、九輪も薄く、詰まった感じがする。層塔には珍しく四方に鎖をたらす
江戸時代には幕府から2812余石の御朱印を受け東北随一の巨刹となった
見上げると美しい軒反り、実際観てみるとかなり痛み、歪んでいます。
2011年7月17日日曜日
2011年7月15日金曜日
「末社」と「拝所」の背景
![]() |
| 送信者 2011/07 |
「末社」も「拝所」も、一般的には“神々が鎮座されているお社”であるが、神仏習合の名残を今に色濃く留めている修験のお山・出羽三山は簡単には割り切れない長い伝統と事情を包含して複雑である。
もちろん、“神々がましますところ”には変わりなく、中には今なお不思議にして“神秘”この上ない場所もある。数多くの末社と拝所が出来た背景には、多岐にわたるお山の歴史と事情があるが、概略は次のような点を指摘することが出来る。
一、出羽三山は古来、自然崇拝や祖先の御霊が鎮まる霊場として信仰されてきたお山で、境内至る所神々や、御霊の鎮まるところ、との認識が強く働き方々にごく自然に“霊地”が発生した。
一、出羽三山は古来、「羽黒派古修験道」の根本道場で、全山全てが「神」であってその懐の中で修行に励む伝統、特に御開祖・蜂子皇子の難行苦行の場所と伝えられる“秘所”や、ゆかりの“聖地”が遺されている。
一、神仏が習合し、さらに修験道の大きな影響を受け、各地に霊験あらたかな「拝所」や「仏堂」あるいは「社」がつくられた。
事実、現在出羽三山神社が関係者に示す、「末社・拝所」には二つの大きな流れがある。すなわち「一般信者向け」と「山伏修行向け」の二つである。
2011年7月14日木曜日
三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>
![]() |
| 送信者 羽黒山 出羽神社 奥 |
羽黒山頂にあり、三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。
![]() |
| 送信者 羽黒山 出羽神社 奥 |
童子かと思ったら力士でした。この額の名前ご存にでしたか神社号額って言うのですね。
最初は気が付きませんでしたが視線を感じ上を見上げるそこには睨みを利かした力士像が。
黒いので眼光鋭く感じます。
三神合祭殿は一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られており、月山・羽黒山・湯殿山の三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の造営が斎行されている。また御本殿長押には、二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書である。
![]() |
| 送信者 羽黒山 出羽神社 奥 |
柱の四方掘られてます。。。。。。。
2011年7月13日水曜日
一切「口事秘伝」の世界
![]() |
| 送信者 2011/07 |
羽黒山伏」「羽黒修験」とは何か、山伏の山に伏すとは、験を修めるとは_____、よく聞かれ、話題になることである。しかし、それを概説することは大変難しい。一切を“口事秘伝”とする世界で「理」を以て攻め「論」を以て識り心を以て悟ることだからである。と、いっても「羽黒派古修験道」の何たるかを書き誌した「書物」や「古文書」が決して皆無、というわけではない。むしろ実に多くの「書物」があって、その研究に事欠くことはない。
しかし、重要なことは、文言_______云々ではなく、自らその世界に入り(入峰)込み、心を空しくして大先達の導くままに、山の気に接し、神々と邂逅して、生きながらにして“即身成仏”することである。万巻の「書物」が書かれたとしても、それはそれだけの話であって、自ら「入峰」して、神奈備の杜の霊気に触れて、それをいただき、邪念を払って新しく生まれ出ること、それ以外に「羽黒派古修験道」を識る手がかりはない、と断言してよい。決して“学問の世界”のことではないのである。
登録:
投稿 (Atom)






















